女将より
『那古井の里』は夏目漱石が訪れた熊本の温泉の地として知られています。
そして明治文学の名作『草枕』は、この那古井の里での夏目漱石の体験を題材に書かれました。
100年前に想いを馳せて…。
夏目漱石、小説『草枕』に関する無数のエピソード、那古井でお話しできることを楽しみにしています。
幼い時から聞きなれたこの冒頭の文章。歳をとり、一つ一つ苦労を重ねるたびに漱石の感性が凄いと思っていた私です。
それが…
ある、有名な「書画家」の先生が那古井館にいらっしゃいました。漱石と、ヒロイン「那美」さんとの【100年のロマンス】をお話させて頂いたとき、先生のひらめきと私の不思議が繋がって…先生のお話で、草枕冒頭文章の本当の意味を理解したのです。明治の時代のロマンス。文豪「夏目漱石」だけが楽しんだなぞかけの「恋文の小説・草枕」ヒントは、漱石は、那美さんを気に入って何度となく「小天温泉」にこられているそうです。
小説の中では、「那美」本名「前田 卓子(つなこ)」
これが、山路を登りながら…の後の文章に二人の想いがわかったのです。確かに、先生の見解が100%ではないかも知れませんがその話を聞いた時の私は鳥肌が立ったと同時に、写真の漱石が「ニッタ~」と笑ったのです。
謎解きの答えは、那古井館においで頂いたときに…
那古井館の裏に「鏡の池」という庭付きの立派な家があります。
かなり、大きな池で鯉も沢山泳いでいます。
現在は、民家の為に見学は不可能です。
当時は、漱石が宿泊した「前田案山子」の別荘の一つでした。
「草枕」の中にも漱石と那美さんの会話の中に
「画にかくに好い所ですか」「身を投げるに好い所です」と書かれています。本来、前田家の庭の池ですが、小説の中で「鏡の池」と表現されている為に今も、お住まいの方の名前ではなくて「鏡ヶ池」と呼ばれています。
どうして、漱石は「鏡の池」と表現したのでしょうか。
その前から、そう呼ばれていたのでしょうか。
これは、別の方の見解ですが…
漱石の奥様の名前は「鏡子」
熊本に漱石が赴任してからすぐに「坪井川」に身を投げたというエピソードがあります。
「鏡子」…「鏡の池」…
草枕は、謎かけの面白い小説です。
那美(卓子)さんは、晩年東京で過ごすことになります。
小説「草枕」を読んで少し憤慨したそうです。
小説の中の那美は、「変わり者」の様な表現をされているところがあるので、後日、漱石のご自宅に伺った時もその話をされたそうです。
ただ、那美さんは姪(?)に「今まで、いい男性には会えなかったけれど、漱石先生は素敵だった。……」と話されたようです。
なぜ、草枕の中で那美さんは、男勝りの少し変わった女性として表現されたのでしょうね?
那美さんのお父さんは、「前田案山子」熊本から二人の「第一回目の衆議院」で私の母の話によると、当時はこの小天村のお殿様的な存在。熊本に行くまでは、他人の土地は踏まずに熊本まで行けたそうで…
その、次女に生まれた那美さんは、文学・学問にも精通し、武道では長刀を得意とされていたとか…。田舎の明治の時代であれば…男勝りの女性として見られていたのでしょうね。
漱石自身にも、小説の内容を納得いかないと言った那美さん…流石ですね!
那美さんの当時の諸事情を聞いた漱石先生は、「草枕も書き直さなければいけないな」とおっしゃったとか…
100年前の色々なエピソード…本当のことは、漱石と那美さんだけが知っているのですね。
那美のモデル
前田卓子
志保田の隠居
前田案山子
那古井館の玄関では、若かりし日の漱石の写真がお客様をお迎えします。
従来、「漱石館」と呼ばれ、「離れ」の一部屋のみ公開されていましたが、草枕に登場する「浴場」が2004年度に修復工事を終え、母屋を除く別邸敷地とともに、初めて一般に公開されることになりました。(那古井館より徒歩2分)
明治30年
創業者、田尻勢八が温泉発掘を成功し、田尻温泉として温泉宿を開業。
明治30年
夏目漱石が熊本を訪れ、小天温泉で正月を過ごしました。後に漱石は「僕は帰ったらだれかと日本流の旅行がしてみたい。小天行き杯(など)思い出す」と、手紙の中で書いています。
明治39年
夏目漱石の熊本での体験をもとに、明治文学の名作「草枕」が生まれました。
戦後、漱石の言葉にちなみ、田尻温泉を那古井温泉と屋号を改名。